カロノロジー会の掲示板

122017
最新情報はtwitter
https://twitter.com/Calonologia2020
をご覧ください。

目に留まったところ 次回出席 - taro

2013/01/17 (Thu) 21:35:01

6章 P153 (自己疎外の構造) 「技術は結果の持っている空間的効果を最大限に拡張し、経過の持っている時間性を消去しようとする企てにほかならない。人間の実存の本質は、空間的なものでなく、自覚という意識である。 技術連関に成り立っている現代社会は、人間の実存の本質を抑圧しようとする方位にある。 」
7章 P178 「美しいものはあるが、美、すなわち美しさはこの世のどこにもない。 美は意識的な存在、観念的存在である。」「三つのものはあるが、三という数はこの世のどこにもない。」「滅びてゆくいろいろな事物が三つあることよりも、三という観念の方が永遠であること、また三つのものではなく、たとえば三のような観念的な数の方が、秩序つけの原理であり、その意味では、目に見え、手で触れる事物を支配している。」P179「美しい花が枯れても、そしてその場所に醜く萎えた花があっても、われわれは花の美しさを記憶したり、想起したりすることができかつ、その心にとらえた美しさが、美しい花の消えた今日も、私の心を晴れやかに元気つけることもあるではないか。」

Re: 目に留まったところ 次回出席 - 事務局

2013/01/18 (Fri) 10:31:32

p.178-179の箇所は、

ぼくも引っかかったところです。

明日、議論になれば、

おもしろそうです。

Re: 目に留まったところ 次回出席 - moyamoya

2013/01/19 (Sat) 00:42:37

P153に関して—、
小田部氏の著書中では、次のように、今道先生が、やや肯定的に「技術」を捉えているように見えました。
「ありうべき目的を前提としつつそれにふさわしい手段としての行為を推論する古典三段論法が、科学技術の発展した現代においては変質を被り、むしろ既存の手段が目的をあらかじめ規定するようになった、というのが今道説である。」(小田部胤久『木村素衛「表現愛」の美学­­』、講談社、2010、89頁)
ここには、「新たな手段の出現が新たな目的の発見を促す」(90頁)という前向きな展望が見られますが…。

Re: 目に留まったところ 次回出席 - taro

2013/02/14 (Thu) 14:58:58

小田部胤久『木村素衛「表現愛」の美学­­』は見ていません。「新たな手段の出現が新たな目的の発見を促す」のでしょうが、「肯定的に「技術」を捉えている」というのはどの点でしょうか。「時間性を消去」や「人間の実存の本質を抑圧」
という点ではどうでしょうか。

Re: 目に留まったところ 次回出席 - moyamoya

2013/02/15 (Fri) 23:36:50

それは「目的を見出す」という点です。


むかしは、生活を便利にするためという目的に向かって
何かを開発していましたが、今はとにかく生活に必要か必要でないか
わからぬまま新しい技術が開発され続けている。
そうするとその「手段」をなんとか有意味にするために
人間は「目的」を探します。

ここで「想像」と「創造」の能力が発揮され、
「人間の実存の本質」に関わる精神活動がなされると思います。

「時間性を消去」や「人間の実存の本質を抑圧」する点は、
確かにあるでしょうが、避けられると思います。
「技術」を「いかなる目的のために用いるかを決めることは
人間に委ねられている…(中略)…「手段」を一つにまとめつつ
そこからありうべき「目的」を「見つけ出す」こと」
(小田部胤久『木村素衛「表現愛」の美学­­』、講談社、2010、87頁)が大切になると思います。


「新たな手段の出現が新たな目的の発見を促す」
というのは木村素衛さんの技術の捉え方と小田部氏は言っています。
しかし、「目的をあらかじめ"規定"するようになった」という
小田部氏の言い方には確かに今道先生が技術に対して否定感を
持っていると見ていそうですが、それでも「手段」から
「目的」が出てくるならば「やや肯定的」かしらと思いました。

Re: 目に留まったところ  - taro

2013/02/26 (Tue) 21:31:28

[美の存立と生成」を図書館で借りて見たら、
第一章 第一節「芸術解釈の新しい方位」に以下のようにありました。
P42「目的に対する手段の決定的優位が成立する。この傾向は、美学的諸問題に大きな影響を与えざるを得ない。特に人間の理想を更に超越するところの理念としての美を省察の視野に置こうとする現代美学に、それが技術社会では不可能なのではないか、という疑惑を持たせる。(省略) 今日、芸術的創造の目的は常に必ずしも超越的理想の追求ではなく、(省略)この能力の射程内における試みの実行に過ぎない場合が多い。これは、もはや無限への精神的運動ではなく、限られた事物による限られた様式の戯れに過ぎなくなる。それゆえ、ここでは垂直的価値が問題ではなく、水平的な新しさ奇妙さが問題となる。(省略) 試みが新奇でありさえすれば (省略) こうなると、創造と生産の差別も、展覧会場と実験工房の区別もつかないことになる。」

Re: 目に留まったところ 次回出席 - moyamoya

2013/03/02 (Sat) 14:39:07

マルセル・デュシャンも美術館にガラクタが並ぶようになることを危惧していたとどこかで読んだことがあります。これは、「新奇」な見かけを持った偽物のアートが私はアートですよ、と人をだますという意味だと思われます。
何故そうなるのか。
もし、「試みが新奇で」何の価値もない物を「芸術」と認める人がいるならば、それは「技術」が悪いのでしようか。
「技術」自体が悪いことはなく、「中立であり、それは人が悪用されるときに悪をなすにすぎ」(『美の存立と生成』302頁)ないはずです。
要は使う人がどのような目的で使うかと、その価値判断をする人にすべてはかかっていると思われます。
「技術社会」で生活している中、人間の心に不具合が出てきた、何となく社会が息苦しい。毎日が忙しい、自分が本当に生きられていないなどの不調が感じられてきた。そしてそれは「技術社会」のせいかと人は考えるかもしれません。しかし、私は一番の問題は人間関係の悪化だと思います。
橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』によれば、「美」を感じるのは「人間関係」に由来すると結論づけていますが、私もそうじゃないかなーと思っています。健康的な「人間関係」が築けないと「美」や「芸術」もわからなくなってしまう。
では「技術社会」が「人間関係」の悪化をもたらしたのか。
昔、「技術」は「道具」であり、人間身体の延長としてありました。現代は「道具」が人間の「目的」を促すと言う逆転が起きています。このような社会がそうさせたのでしょうか。
スティーブ・ジョブズがなくなってからは少々質が落ちたと聞きますが、アップル製品にはユーザーの創造力を触発する機能や形態がありますし、また、映像の分野では3Dや高精細高感度のコレまで見えなかった映像を撮影できたり作れる技術が出てきています。
これらの機能は決して人間の生活に必要不可欠ではないですが「価値」がないとは思えません。
少なくとも上記のような技術者側は、人をインスパイアしなければならないという気概をもって開発しています。つまり、使い手に話かけてきていると言うことです。私はそれらもまた「作品」と呼べると思います。
「我々の現代的環境とは、作品の群落である。」(『美の〜』354頁)
健康的な「人間関係」が築きづらい現代人にとって「作品」と向き合ってコミュニケーションすることは難しいと考えます。また、そのような作家が作る「作品」もガラクタとなるのだと思います。

「人間関係」悪化につながる問題は他にあると考えています。

名前
件名
メッセージ
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.